代表のプロフィール(自己紹介)

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Profile


はじめまして、くれはとり株式会社の代表取締役・高野純(たかのじゅん)と申します。 1991年、東京生まれ東京育ちです。


30歳のときに友人と有限責任事業組合をはじめ、31歳の誕生日に株式会社となりました。


ここでは私のプロフィールというか、どうやって生まれて、どうやって技術の会社をつくるまでに至ったのかお伝えします。


産まれたときから呼吸困難、うまくいかないこと続き


産まれたときは、呼吸していませんでした。幽門狭窄症(ゆうもんきょうさくしょう)という病気にかかり、毎日呼吸困難になり、親に迷惑をかけました。逆子の難産でした。


ゲームキッズ


幼いころは野球とアニメとゲームが大好きで、よく指にタコをつくったり寝不足で怒られたりしていました。


両親の離婚


家庭が大荒れし、両親が離婚し、祖母の家で過ごす時間が長く、祖母の趣味をいろいろ教わり、その頃の異質な経験がいまは経験の幅として生きています。


うぶな中高時代


学生の頃は恋愛がうまくいかず、キスを咄嗟に拒んでしまい、その場でにフラれたこともあります。


本や人との出会い


大学受験の浪人中に大失恋をし、反省するなかでマザコンを自覚し、解決を目指すなかで初めて「本」と「心理学」に出会いました。


「GREE(グリー)」というSNSで出会った「ターキー」さんというひとが学問に詳しいかたで、英語学や心理学について、当時の私ではアクセスできない知識をいろいろ教えてくださいました。


東日本大震災・大学中途退学


なんとかMARCHと呼ばれる大学に受かったものの、東日本大震災で入学式は自粛的になり、大学生になったのかなってないのかわからないまま学期がはじまり、それと同時に、じぶんが生きてるのか生きてないのかもわからなくなったり、とにかくダウナーな時期で、badに入っていました。


なにひとつ自己肯定感を養えない時代でした。


授業の出席に前向きになれず、逃げ出して、たいした単位もとらずに「勉強(図書館)」と「インターネット」に引きこもりました。


哲学が好き


その頃から「哲学書」というジャンルの本を意識するようになりました。じぶんが好きになる本はどうやら哲学だとわかったのです。


哲学書はわからないことばかりが書いてあり、意味もとらえにくく、「私は現代文が得意だ」という根強い自意識が、一気に壊される感覚が気持ちよくて、難解な文章に粘り強くしがみついて、最後の最後までひたりつくという大切な経験を与えてもらえました。


占いと人生相談


哲学は既存の答えを超えていく 哲学の「問いを問うて、既存の答えを超えていく」というスタイルに慣れたころ、そのスタイルが「人生相談」に役立つと思って、占いの仕事に就くようになりました。


占星術やタロットを学びつつ、「答えのない問いに答えを提供する」というエンビジョンな価値提供を磨きました。


翻訳者


短い大学生活のなかでも、英語系の学科だったこともあり英語力がそこそこ発達していたので、存在しない答えと向き合う「翻訳」という仕事に就きました。


その流れで、同様に産まれた姿の文章と向き合って答えを模索する「校正」という仕事もするようになりました。


新人賞で小説家デビュー&ライティング業


最終的には小説を書いてみるよう誘ってもらい、哲学を題材にした小説で出版社の新人賞をもらうことができました。


20代なかばのことです。 そこからライティング業、シナリオ業、文章講座などをやらせてもらえるようになり、「文章のひと」になることができました。


たまたま強制的にウェブエンジニア


翻訳をはじめたころから、ことばを蒐集するのが趣味で、そのコレクションがおもしろいからガチャにしよう、と、ITエンジニアの友人と意気投合して、ウェブサービスをつくりはじめるようになりました。


最初は完全分業で、私は技術的なことはしなかったのですが、友人の勤め先が中東にあったり中国で出来たという恋人(?)との兼ね合いがあるらしく彼の日本滞在時間が大きく減り、いよいよじぶんだけで完成させなければならなくなりました。


友人が土産としてほぼ完成させてくれていたソースコードは、「Ruby on Rails(ルビー・オン・レイルズ)」と呼ばれるフレームワークで書かれていました。


当時いっしょに行った大崎駅ちかくの銭湯で、彼は「レイルズはさあ、とにかく爆速なんだよ」と目を輝かせながら言っていたのをいまでも思い出します。


友人の置き土産のRuby on Rails


とはいえ、当時の私は爆速な「Ruby on Rails」がどうとか以前に、プログラミングというものを知らないし、どうやったらウェブ開発ができるのかも知らなかったので、持てる時間をすべて試行錯誤に費やしました。


……ここの「migration」って書いてあるやつがどうやらデータを取り込むっぽいぞ、なんて読むのかわからなんけど。


……CSV形式だとうまくいくっぽい書きかたをしてくれてるから、スプレッドシートから取り出してくればいいんだ。


……「top.html.erb」って書いてあるところに書いたことがトップページに反映されるっぽいぞ。


……ルーティングっていうのが、どうやらURLと関係あるっぽいぞ。ぜんぶ「GET」って書いてあるから、とりあえずGETでいいだろう。


……「heroku」っていうやつにアップデート指示を出すと、どうやらサイトの情報が更新されるらしい。エラーによると、ギットとかいうやつに、プッシュとかいうやつをやったほうがいいらしい。


いま思うと恥ずかしくなるような、めちゃくちゃな、ここに書くのも憚られるレベルの、見るも無惨な知識量と、誤った理解でウェブサービスをつくっていました。


しかも、前任の友人が優秀だったから、私が壊さない限りは動く、という絶妙なシチュエーションでした。


ひとつだけ好運だったのは、私は「英語」もできるし、「わからない文章を粘り強く読む」こともできたので、英語で書かれている「ドキュメント」という仕様書を読むことや、英語で吐き出される「エラー文」を理解することにあまり苦労せず、ラッキーだったなと思います。


レジ打ちバイトやゲームをやってたのでタイピングも問題ありませんでした。


そういうバックグラウンドもあって、当時の私はずっと「じぶんのつくりたいものをつくるために」プログラミングを用いること、つまり、アイデアを実現する創作的な目的でしか使えませんでした。


業務としてのプログラミング


そして、それからウェブ制作会社で働くようになり、しかもその会社は自社サービスもあれば、受託案件もあって、50個ほどのプロジェクトがいつもせわしなく動き回っている現場でした。


そのおかげで、「他人のためにプログラミングする」という経験値が増えていき、それがどれほど尊いものか、ようやく理解することができました。


ただ、営業主体の会社になっていき、あまり技術的な観点が顧客に届くことはなく、価値提供をしているというよりは納得させたものをつくって納品する、という仕事になっていき、それに不満を抱えるぐらいならじぶんで挑戦してみようと思って、いまの会社に至ります。


会社に所属していたころも副業を許されており、会社では出来なかったプログラミング言語を勉強して、業務効率用のスクリプトや、いろいろなシステムに携わらせていただきました。


これまでの経験を生かしながら、みなさんのいちばん大事な課題に技術で向き合い、価値提供できたらこの上なくうれしいです。


理念


「一生付き合いできる技術パートナー」という理念を掲げています。


これ自体は私がじぶんに課したおおきな課題です。


努力しつづけますので、ぜひ私といっしょに走っていただけたらさいわいです。


会社のほうのページには、あいさつ文もあります。ぜひ『代表取締役あいさつ「技術とくらしについて」』もご覧くださいませ。